【保存版】茶道の歴史-茶の湯文化が辿ってきた軌跡
茶道を始めるにあたり、
茶の湯が現代まで発展してきたその軌跡を勉強しておきましょう!
きっと、
茶道のことがもっと好きになれることでしょう。
奈良時代→中国から日本への茶道の伝来
茶道は日本で発展してきた日本文化の代表格ですが、
「茶」を飲む習慣自体は、元々は中国から伝来してきたものとされています。
奈良時代において、
遣唐使が帰国する際にお土産に「茶」を持ち帰ったり、中国から日本にきた僧侶たちが普段から飲んでいた「茶」を日本に持ち込んだようです。
中国(その頃は唐の時代)では、その頃お茶を飲む習慣がありました。
しかし、中国のお茶は『団茶』と呼ばれるお茶の葉を固めてダンゴ状にしたものだったそうです。
中国(唐)の時代、陸羽が書いた茶経(ちゃきょう)という本に、
お茶の飲み方などが書かれているので、中国ではお茶を飲む習慣があったことがわかります。
また、
奈良時代には、聖武天皇の頃に「行茶(ぎょうちゃ)」という天皇が僧侶に茶を供する儀式があったそうです。
行茶に用いられたとされる青磁の茶碗は正倉院の御物にあります。
平安時代→茶の木の移植
茶の木が、中国から日本に初めて移植されたのは平安時代とされています。
比叡山延暦寺を建立し天台宗を広めた最澄という僧侶がおります。
最澄は804年に空海と共に唐に渡りました。
最澄が唐にいたのは10ヶ月ほどですが、日本に戻ってくる際に30年近く中国で学んでいた永忠という僧侶と共に帰国し、
帰国の際に、その永忠という僧侶が茶の実を日本に持ち帰りました。
永忠が持ち帰った茶の実は、今でもその一部が残っています。
比叡山の麓にある「坂本」という地に、天然記念物になっています。
その後も、中国から茶が輸入され続けましたが、
894年に遣唐使が廃止されて、日本と中国(唐)との交流が途絶えると、茶も輸入されなくなります。
遣唐使の廃止を契機として、日本では茶を飲む風習が衰えてしまいました。
日本でも茶の木がありお茶を生産できたそうですが、
茶の生産量は少なかったようです。
鎌倉時代→禅僧による茶の復活
平安時代には遣唐使の廃止とともに一時衰退した「お茶」を飲む風習ですが、
中国が「宋の時代」に入ると、日本との交流が復活し、日本にも再度お茶が輸入され始めます。
宋に渡り、日本に再びお茶を持ち帰り始めた僧侶として臨済宗の「栄西禅師」という方がいました。
1911年にお茶を宋から持ち帰った栄西禅師は、日本に帰ると明恵上人(みょうえしょうにん)という方に茶の実をプレゼントしました。
明恵上人は栄西禅師から贈られた茶の実を京都栂尾(とがのお)の地に植えたところ、上質なお茶が取れるようになり、京都から全国各地にお茶が広まったのです。
中国と日本の交流が一時中断してましたが、中断している間に、中国では茶が発展します。
唐の時代には「団茶」というダンゴ状のお茶葉でしたが、
宋の時代には現在の抹茶のような上質の茶が使用されており、お茶を点てる茶具や作法も発達していたそうです。
また、
明恵上人が京都栂尾で栽培していた上質のお茶のことを「本茶(ほんちゃ)」、それ以外の地で栽培していたお茶のことを「非茶(ひちゃ)」と呼んでいました。
栄西禅史をはじめとした宋に渡った僧侶のお陰で、鎌倉時代には再び日本でもお茶を飲む文化が盛んとなりましたが、
この頃のお茶は、飲み物として楽しむだけではなく、病気に効く健康回復の薬としても重宝されていました。
鎌倉時代の史書である「吾妻鏡(あずまかがみ)」にも、栄西禅師が鎌倉三代将軍の源実朝にお茶を良薬として献上したという記録があります。
栄西禅師は、「喫茶養生記」という書物を記録しており、
その中で茶は万人の病気に効く薬であると記しています。
このようにして、鎌倉時代において、お茶は、「宋→京都→鎌倉」と渡り、日本における茶文化が広まります。
茶が盛んになるにつれて、宋からも茶道具が輸入されるようになりました。
室町時代前期→禅僧から武家階級へ 茶を飲む文化の広まり
禅僧から始まったお茶を飲む風習は、室町時代になると、武家階級そして武家以外の一般人にも広がります。
特に武家階級においては、贅沢品として、また遊戯としてお茶を飲む風習が広まったのです。
武家たちは、豪華な食事をした後に、茶を使って「賭けごと」をしており、
この賭けごとの遊びは「闘茶(とうちゃ)」または「茶寄り合い」と呼ばれていました。
産地の異なる数種類のお茶を飲んで「本茶」か「非茶」かを言い当てるものであり、この賭けごとのお茶は流行しましたが、次第にこの賭けごとを取り締まる法も制定されました。
この頃から、現在の茶会と似たような茶会が催され始めます。
室町時代中期→村田珠光による草庵茶
闘茶をはじめとして武家社会で流行したお茶ですが、室町中期に入り、経済状態の悪化とともに、お茶の流行りも一度下火となります。
しかし、八代将軍の足利義政がお茶を愛好したこともあり、次第にまたお茶が流行ります。
上流階級においては書院造の広間で行う茶の湯(書院の茶)が流行り、また一般の人の間においても「一服一銭の茶」という簡素な茶法が流行しました。
上流階級の「書院の茶」は、中国から輸入されてきた唐物の茶道具が最上と考える唐物一辺倒の考えです。
さて、この室町時代中期には、
村田珠光(むらたしゅこう)という茶人が登場します。
村田珠光は、奈良の称名寺(しょうみょうじ)という寺の僧侶であり、その後、一休さんで有名な京都の大徳寺の一休宗純(いっきゅうそうじゅん)の門下に入った人です。
村田珠光と、そして一休宗純は、これまでの贅沢な茶法を改めて、簡素で落ち着いたお茶の茶法を作りました。
この村田珠光の簡素で落ち着いてお茶の茶法の詳細は明らかでないそうですが、
上流階級の「書院の茶」のように宴会形式で広い部屋で行う茶会とは異なり、簡素でより狭い部屋で落ち着いた雰囲気で行うものだったそうです。
また、唐物一辺倒の考えではなく、備前焼(びぜんやき)や信楽焼(しがらきやき)という日本製の茶道具を使う、わび草庵の茶の湯への準備を進めました。
村田珠光という茶人が登場した室町時代中期ですが、
戦乱が相次いだため、京都の人々は戦乱の地である京都を離れて、大阪の堺(当時の貿易港)をはじめとした全国へ移住しはじめます。
室町時代後期→武野紹鷗によるわび茶
京都の戦乱から逃れて、大阪の堺に移住した茶人の中に、1502年生まれの武野紹鷗(たけの じょうおう)がいました。
武野紹鷗は村田珠光の弟子から茶法を学んだとされる人です。
武野紹鷗は、村田珠光による簡素な草庵の茶を、さらに一歩進めて「わび茶」というものを始めました。
わび茶により、茶法においては精神性が重要視されるようになります。
安土桃山時代→千利休によるわび茶の完成
武野紹鷗が始めた「わび茶」を完成させたのが、その弟子であった千利休です。
利休は1522年に堺で生まれ、元々は「田中与四郎」といいました。
そして武野紹鷗に弟子入りした頃は、利休は「抛筌斎宗易(ほうせんさいそうえき)」と名乗っておりました。
「千」の姓は、足利家の同朋衆だった祖父の千阿弥から一字をとって、織田信長が利休に付与したと伝えられてます。
利休は織田信長に茶道役(さどうやく)として召されて、後に豊臣秀吉にも使えます。
豊臣秀吉は利休を重く用いました。宮中茶会においても利休に茶席を持たせるために、朝廷に願い出て「利休居士(りきゅうこじ)」という称号を天皇から付与されるよう取り計らっています。
利休が正式に「利休」と名乗る要因あったのはこのとき以降です。
このように豊臣秀吉のもとで大活躍した千利休ですが、秀吉の怒りに合います。
大徳寺の山門に金毛閣(きんもうかく)を寄進して、千利休の木蔵が安置されたことが後の問題とされてしまい、豊臣秀吉から切腹を命ぜられてしまいます。切腹を命じられ没したのが1591年2月28日です。
千利休は生きている間に、わび茶を完成させました。
千利休の考える「わび」は武野紹鷗の考える「わび」とは異なるとされます。
利休の考えるわびとは、長く厳しい寒さを乗り越えて、雪の合間や雪の下から自然の芽吹きが伺えるような、そのような小さくも躍動し始めた生命力を指します。
利休は静けさの中にも息吹が感じられる新しい活動力のことをわびと考えていました。
安土桃山時代〜江戸時代→利休七哲と大名茶
千利休には多くの弟子がおり、それら弟子の属性は「大名」から「町人」まで様々でした。
中でも武将の弟子として著名な七人の茶人がおり、
その七人の茶人は利休七哲(りきゅうしちてつ)と呼ばれてました。
- 古田織部(ふるたおりべ)
- 蒲生氏郷(がもううじさと)
- 細川忠興(三斎)(ほそかわただおき、ほそかわさんさい)
- 牧村兵部(まきむらひょうぶ)
- 高山右近(たかやまうこん)
- 芝山宗綱(しばやまむねつな)
- 瀬田掃部(せたかもん)
千利休が切腹した後、利休の跡を継いだのが、古田織部です。
利休の茶の精神をよく守り通した古田織部ですが、古田織部もまた江戸時代に入ってから徳川家康に切腹させられてしまいます。
古田織部の跡を継いだのが「小堀遠州」です。
江戸時代に入ると大名たちの間で茶の湯が流行し、大名達による茶の湯のことを「大名茶(だいみょうちゃ)」と呼んでおりました。
大名茶人として中心を成したのが「小堀遠州、片桐石州、金森宗和」という大名達だったのです。
江戸時代〜千家の再興
千利休には子供のうち、長男である「千道安(どうあん)」は飛騨に隠れ、また次男である「少庵(しょうあん)」は利休七哲のひとり会津若松の蒲生氏郷に預けられていましたが、
蒲生氏郷や徳川家康の取りなしもあって、豊臣秀吉から千家千家茶道が再興することの許しが出ました。
千家再興の後、
道安は堺に戻り「堺千家」を再興しますが、跡継ぎがなかったために家系は断絶しました。
少庵は「千家茶道」を継承し、徳川家に仕えたのちに大坂夏の陣(1615)を迎える前に亡くなりました。
その後、
現在の千家茶道の礎を気づいたのは、少庵の子供である「宗旦(そうたん)」でした。
祖父に当たる千利休が切腹させられたとき、孫の宗旦は14歳で大徳寺の喝食(かつじき)でしたが、千家再興の際に少庵の元に戻りました。
宗旦は、少庵の後に千家の三代目(利休→少庵→宗旦)を継ぎました。
宗旦には四人の男子がおりましたが、長男は家を出ていたこともあり、
三男の宗左(そうさ)に不審庵(ふしんあん)を継いで「表千家」に、
四男の宗室(そうしつ)に一畳台目の今日庵(こんにちあん)、八畳敷の寒雲亭(かんうんてい)、又隠(ゆういん)を継いで「裏千家」に、
そして、
二男の宗守(そうしゅ)が分家として官休庵(かんきゅうあん)を建てて、「武者小路千家」となります。
表千家、裏千家、武者小路千家は「三千家(さんせんけ)」と呼ばれています。